ラジ茶、あります
 
ラジ観察日記のパスを忘れた誰かさんのための日記
 



2013年1月を表示

見つけて

※名前がない、という世界だったらという別の人のお話からヒントをもらって。





 名前という概念を知らなかった。そして、気づいてしまえばもはや戻ることはできない。ないのではない。拾っていないだけなのだ。一度ついたインクは、もう落ちない。
 私は自分に沸騰したら、煮汁の濁りがなくなったら透明になるまで、丁寧にしっかり灰汁を取れ、と名付けてみた。うん、これはいい。私は母直伝の煮込み料理が得意なのだ。名前があるとは、こんなにも素晴らしいことだったのか。試しに声に出してみる。初めはゆっくりと、次は甲高く、三度目は母の声真似で。口にすればするほどしっくりとくる。私という個が初めて浮かび上がったという気さえする。
 翌日から私はこの誇り高き営みを、周囲へ勧めることにした。私は沸騰したら、煮汁の濁りがなくなったら透明になるまで、丁寧にしっかり灰汁を取れという人間になった。あなたの夫も、あなたの子も、あなたの両親も、あなたの親戚も、あなたの知人も、あなたの友人も、あなたの同僚も名を持とう。旅人が言っていたではないか。人の名は両親の思いを込めた愛であると! あなたは、息子が鏡に落書きをしたから尻をものさしで叩いている、はどうだろう。

 私は旅に出ることになった。

 入国審査官は、我が国へようこそ、と折り目正しく微笑んだ。旅行客が訪れるのは随分と久しぶりのことだそうで、話によると既に私の顔と名前は国営テレビに映し出され、国中の人たちがゲートの前に集まってきているらしい。先ほどは新聞記者もインタビューに来た。故郷では味わわないことばかりだ。やはり旅は良いと改めて思う。ときに煮汁の濁りがなくなってき…なくなったら透明になるまで、丁寧にしっかり灰汁を取れさん、こちらはご本名ですか。おかしなことを言うものだ。私はもちろんです、と答える。
しばらく会議になっておりました、申し訳ありません。奥から戻ってくると、礼儀正しさを保ったまま審査官は頭を下げた。どこへ行っても歓迎されますよ。送り出してくれる穏やかな顔つきをまじまじと見つめる。本当だろうか。それならば、この名前を呼んでもらいたい。両親が教えてくれた、最高の名前を! 年甲斐もなく私は興奮する心を抑えられない。いよいよ扉の前に立つと、自己紹介のため息を大きく吸った。

大歓声とともに私はすぐさま取り囲まれた。我先にと鈴木です。マイクです。眞木です。ピエールです。挨拶が始まり、期待していたとおり、誰もが私の名を呼んでくれる。嬉しい。嬉しい! ガラスが砕け散るような感動を覚える。しかし、次第にオセロのようにぱたぱたぱたと、喜びはおののきへと裏返っていく。みんな、同じ笑顔。全員、同じ顔。同じ形の唇から次々に私の名が飛び出る。同じ目を輝かせた子どもが駆け寄ってくると、頬をひきつらせながら、私こと沸騰したら、煮汁の濁りがなくなったら透明になるまで、丁寧にしっかり灰汁を取れは口走っていた。
「おまえは誰なんだ」



1月22日(火)20:10 | トラックバック(0) | コメント(3) | 趣味 | 管理

食べ合わせ

超短編小説会のキーワードを使ってお話を作るお祭りがあります。
※時速100キロ・迷子・おくる・言葉・居場所・狂科学者・密室・マンモス・味の飴・あべこべ・ロボット・けなげな・長森さん・おちて・こなくなった・文学少女・漂流記・夢みる・時間・温暖化・人類・リスト  をのうちどれかを使うこと、っていうルールがあります。私は全部使いました。




 昨日、振られた。その事実が今頃になってじわじわと重くのしかかってくる。ふたご座流星群なんて嫌いだ、あんなに願掛けをしたのに。ベッドからキクラゲが生えそうなほど淀んだ気が溢れている。腰に力が入らない。もし今バレーボール大会に出たら顔面でトスをしてブーイングを浴びることになるだろう。レシーブはかわされているし、アタックなんてとんでもない。そのまま大の字にうつ伏せで倒れ、勝ってもいないのにと物を投げられるに違いない。そもそも僕の運動機能は著しく脆弱である。
 ありがちな「他のことをして気を紛らわす」という古典的作戦で、可及的速やかに振られた現実など忘れてしまうことにした。じっとしている間にもすぐに涙腺が緩む。安売りのティッシュペーパーはすでに一箱なくなった。考え事をしてはいけない。必死に体を動かし続ける作業がいい。バレンタインデーより前に訪れる2月の一大イベント、節分に全力を尽くそう。そう、太巻きだ。練習しよう。二箱目を開けて鼻をかむ。財布と家の鍵と燃えるゴミだけを手に、スニーカーをつっかけスーパーへ走った。
 
 料理なんて大してやったことはないのだし、いっそのこと独創的なアレンジで世間を席巻するくらいの勢いでいこう。卵にキュウリに桜でんぶ。食材選びに悩んで思い返してしまうくらいならと、ロボットのように手当たり次第かごに放り込む。トマトにあんこに餃子の皮。一緒に行く予定だった、フレンチレストラン用にとっておいたなけなしのボーナスがある。牛フィレ肉にシュークリームにえのきだけ。鮮魚コーナーで迷子になりながらも、アオリイカ片手になんとかレジにたどり着き、やじろべえのように揺れながら帰る。
それでも米を研いでいるときなど、気づけば昨日の言葉が頭を渦巻いている。十五少年漂流記が愛読書でありそうな、生真面目な文学少女は顔を上げなかった。ごめんなさい、面白い人がタイプなの。
知らなかった。1月の駅前は、地球温暖化阻止に一役買えるような、冷凍庫効果ガスが蔓延するエリアだったのか。夢見るひとときはものの一時間で潰えた。気まずい空気に落ち着けなげな様子に、平気だ元気だアジャパーと謎のオーバーリアクションをとってみせる。改札へ向かう背中を呆然と見送ると、北風が冷たく吹きつけた。足を止め眺めていた聴衆が一斉に目を背ける。既に二重三重の意味で居場所がなく、地下鉄のホームへ時速100キロ(心象イメージ含む)で駆け降りた。

 また考え込んでいた。頭を振る。煮込んだポップコーンにヨーグルトを投入する。あの子のためなら痩せ我慢もする。鰹の刺身に練乳をかける。某羊の肉味の飴だって耐えきってみせる。ろくに冒険したことのない、しがないモラリストである自分にとっては、何もかもが0からのスタートなのだ。世間知らずだとかおぼっちゃんと詰られたって、すぐに変われるもんじゃあないんだ。みかんに醤油を垂らしてもウニの味にはならない。面白みってなんだ。既に狭いキッチンは狂科学者の研究室さながらの様相で、鍋から零れ落ちている緑色の物体Xは得体のしれないアルコール臭を発している。
 用意した分量はテーブル大などと可愛らしいものではない。床にビニールシートを敷き、焼き海苔(業務用)を八袋並べきる。窓を開けなかったので小さなワンルームは密室と化す。充満したXの香りによりさっきから頭は朦朧としていて、下戸の僕は変に気が大きくなってきた。今こそ昔から貼られ続けている似たようなレッテルを剥がす時ではないのか。上司に始まり一通り人類を呪い喚きながら、おぼつかない手つきで白米を叩きつけていく。それに無駄に色鮮やかな数十の具材を乗せる。しかし、超高校生級サイズである。オリンピック候補になれる。自重のあまりまったく巻簾が意味をなさない。なにしろ全長が7mあるのだ。一人の力では無理がある。

「長森さん、巨大恵方巻きが作れません」
 酢飯でベタベタになった手で電話をかけた。もしもし、という声が聞こえただけで涙がこみ上げる。ロールケーキをポン酢で和えたっていい。やっぱり彼女を諦めることなんてできない。嗚咽混じりの声を、彼女は黙って聞いていた。
 ここまで自分に女々しい部分があるとは思っていなかった。酩酊した頭の片隅で昨日の今日で何をやっているんだ、明日会社どうしよう、と考えている。ソファで大の大人が丸まっている図は非常に情けない。ついに沈黙である。
とても、とても長い静寂の後、短い笑い声が上がり、
「手伝いに行くわ」
ブリアンのような澄んだ声で返事があった。



1月22日(火)20:08 | トラックバック(0) | コメント(0) | 趣味 | 管理

うどん

 先日の大雨の際、馴染みのバーに傘を借りていたのを思い出し、手に取った。暮れも迫ってきている今日、思い立ったが吉日と自分に言い含める。
 快晴の空のもと、割と華やかなデザインの長傘を携えているので、周りの目が気恥ずかしい。忘れていたというわけではないのだが、以前の勤務先の側にあるので、今の通勤経路では通らない場所にあり、ついつい後回しになっていたという方が正確だ。今日こそは、明日こそはと思いながらも随分経ってしまった。
飲みに来る機会も減るねと言いながら、通りに面するガラス張りの壁は、気づけばしとどに濡れていて即席のステンドグラスの裏側からは、通り行く人たちが巨大な三毛猫になったように混じりあって見える。帰ってすぐお風呂に入るからいいと言う私を店主は叱り、誰かが忘れて行ったものだからとワインレッドの大ぶりな花柄の傘を握らせた。ちなみにバネ壊れてるから開くときには注意ね。玄関をがりがりがりと攻撃した私にのほほんと付け足した。そのうち返しに来ると答えたあの日から、にわか雨に困る客へ、店主が傘を貸してやることはあったのだろうか。
 せっかくの決意が空回りするほど、あっさりと着いてしまった。どこかにあった小旅行気分もどこか悔しさになる。開店間もない時間だったのでためらいがちにドアを押すと、サロンを巻いていた短髪のバーテンダーはへらっと笑った。近況を2時間ほど話していると店主が現れた。こちらを認めるや三日月のように目を細める。傘返しに来たよ、と手を振ると、しばらくしげしげと見つめ、合点がいったようにああ、と破顔した。2杯ほどまた頼み、次のカップル客が来たところで、少し重くなった頭を乗せて帰った。
 部屋が見えると唐突に空腹感を感じた。ずいぶん体が冷えたせいもあるだろう。ぼとんぼとんと靴を蹴り捨て、気もそぞろにコートを脱ぐ。がぱり、とゴムが剥がれる音をして冷蔵庫が口を開ける。私は入っていたホウレンソウのおひたしのように萎れたため息をついた。豆腐に納豆に菓子パン。なんとなく求めているものとは違う。かと言って温めてすぐ食べられるおかずがあるわけでもない。炊飯ジャーには黄ばみ始めた一盛り程度の白飯が残っているばかりで、裁判官のような握りこぶしで蓋を閉める。今度は冷凍庫だが、ラーメンも冷凍食品もない。うじうじと諦めきれずもう一度冷蔵庫を漁ると、キャベツの奥にうどんを見つけた。どこにでもある、3食入り98円の残り。いつか買い、一食で満足したのだろうと一、二週間前の自分を分析する。誰もいない部屋でふんふんとうなずき、賞味期限はやや過ぎていたものの、どうってことはない。戸棚を開く。
 めんつゆとみりんを半分ずつ入れて、水道水を直に行平鍋に注ぐ。少し多いかなと思いつつもそのままコンロに乗せる。水から入れればよかったと今さら考えるが、久しぶりに作るので勝手を忘れている。色はそれらしくなっているのでいいことにしよう。火をつけて簡素な椅子に腰かける。点火した瞬間の、ぼ、という音を聞き、ぼんやりとIHではないことに安心する。頭上でガオーと換気扇が吠えている。
 ぷつぷつと縁の方から泡立ってきて、蜜のように即席のつゆが揺らぎ始める。ホウレンソウのおひたしを投入すると、ついていたゴマがぱっと波に散る。唾液を飲みこみながら正方形に収まったうどんをちまちまと菜箸でほどいていく。ここまで来るといかにも食事らしくなり、めんつゆ特有の甘く円かな匂いが鼻腔をくすぐる。卵にシンクの角でひびを入れて、真ん中あたりに落とす。ああ、溶き卵にすれば面倒でなかったのにと思いながらぐりぐりとかき混ぜる。やっつけで形ばかりのうどんでも刻々とできあがっていく。変わっていくことは変わらないことと同じくらい素直なことなのだと、ふと思う。
 暖色灯だけ付けたテーブルに新聞を、その上に鍋を置く。卵のからまったうどんはてらてらと光り、ふくよかな湯気が立ち上る。鍋に直接箸をつける。レンゲの上に小さいうどんを完成させていかにも庶民的な満足感を覚える。はふはふと下唇を突きだして口いっぱいに頬張ると、たまらず鼻が鳴る。舌が火傷しそうだが手は止まらない。必死に食べている自分を、後頭部の辺りからもう一人の私が見ている。その私は、必死に食べている私を、どこか愛おしく眺めている。丸まった背中が父に似ている。つゆが跳ねるのも気にせずあふ、あふと口に運び続ける。嵩が半分くらいになるうちに、うどんに対して奇妙な責任感が芽生えていた。
 幼い日、寝込んでいた布団から見上げた母の後ろ姿と、茶碗が用意されていた具だくさんの煮込みうどんとがよぎる。生え際の辺りに汗をかいているのが分かる。半纏の柄やこたつの熱が一瞬くっきりと蘇る。潰れずほぼ完熟になっていた黄身をひょいと口に入れる。あれだけ急いで飲み込んでいたくせに、最後の一口はやたらもったいぶって味わう。上気した頬が熱い。年尾も近い。お年賀は何にしようか。半ば鼻水を垂らしながら、私はたいらげた。



1月22日(火)20:06 | トラックバック(0) | コメント(0) | 趣味 | 管理


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