ラジ茶、あります
 
ラジ観察日記のパスを忘れた誰かさんのための日記
 



うどん

 先日の大雨の際、馴染みのバーに傘を借りていたのを思い出し、手に取った。暮れも迫ってきている今日、思い立ったが吉日と自分に言い含める。
 快晴の空のもと、割と華やかなデザインの長傘を携えているので、周りの目が気恥ずかしい。忘れていたというわけではないのだが、以前の勤務先の側にあるので、今の通勤経路では通らない場所にあり、ついつい後回しになっていたという方が正確だ。今日こそは、明日こそはと思いながらも随分経ってしまった。
飲みに来る機会も減るねと言いながら、通りに面するガラス張りの壁は、気づけばしとどに濡れていて即席のステンドグラスの裏側からは、通り行く人たちが巨大な三毛猫になったように混じりあって見える。帰ってすぐお風呂に入るからいいと言う私を店主は叱り、誰かが忘れて行ったものだからとワインレッドの大ぶりな花柄の傘を握らせた。ちなみにバネ壊れてるから開くときには注意ね。玄関をがりがりがりと攻撃した私にのほほんと付け足した。そのうち返しに来ると答えたあの日から、にわか雨に困る客へ、店主が傘を貸してやることはあったのだろうか。
 せっかくの決意が空回りするほど、あっさりと着いてしまった。どこかにあった小旅行気分もどこか悔しさになる。開店間もない時間だったのでためらいがちにドアを押すと、サロンを巻いていた短髪のバーテンダーはへらっと笑った。近況を2時間ほど話していると店主が現れた。こちらを認めるや三日月のように目を細める。傘返しに来たよ、と手を振ると、しばらくしげしげと見つめ、合点がいったようにああ、と破顔した。2杯ほどまた頼み、次のカップル客が来たところで、少し重くなった頭を乗せて帰った。
 部屋が見えると唐突に空腹感を感じた。ずいぶん体が冷えたせいもあるだろう。ぼとんぼとんと靴を蹴り捨て、気もそぞろにコートを脱ぐ。がぱり、とゴムが剥がれる音をして冷蔵庫が口を開ける。私は入っていたホウレンソウのおひたしのように萎れたため息をついた。豆腐に納豆に菓子パン。なんとなく求めているものとは違う。かと言って温めてすぐ食べられるおかずがあるわけでもない。炊飯ジャーには黄ばみ始めた一盛り程度の白飯が残っているばかりで、裁判官のような握りこぶしで蓋を閉める。今度は冷凍庫だが、ラーメンも冷凍食品もない。うじうじと諦めきれずもう一度冷蔵庫を漁ると、キャベツの奥にうどんを見つけた。どこにでもある、3食入り98円の残り。いつか買い、一食で満足したのだろうと一、二週間前の自分を分析する。誰もいない部屋でふんふんとうなずき、賞味期限はやや過ぎていたものの、どうってことはない。戸棚を開く。
 めんつゆとみりんを半分ずつ入れて、水道水を直に行平鍋に注ぐ。少し多いかなと思いつつもそのままコンロに乗せる。水から入れればよかったと今さら考えるが、久しぶりに作るので勝手を忘れている。色はそれらしくなっているのでいいことにしよう。火をつけて簡素な椅子に腰かける。点火した瞬間の、ぼ、という音を聞き、ぼんやりとIHではないことに安心する。頭上でガオーと換気扇が吠えている。
 ぷつぷつと縁の方から泡立ってきて、蜜のように即席のつゆが揺らぎ始める。ホウレンソウのおひたしを投入すると、ついていたゴマがぱっと波に散る。唾液を飲みこみながら正方形に収まったうどんをちまちまと菜箸でほどいていく。ここまで来るといかにも食事らしくなり、めんつゆ特有の甘く円かな匂いが鼻腔をくすぐる。卵にシンクの角でひびを入れて、真ん中あたりに落とす。ああ、溶き卵にすれば面倒でなかったのにと思いながらぐりぐりとかき混ぜる。やっつけで形ばかりのうどんでも刻々とできあがっていく。変わっていくことは変わらないことと同じくらい素直なことなのだと、ふと思う。
 暖色灯だけ付けたテーブルに新聞を、その上に鍋を置く。卵のからまったうどんはてらてらと光り、ふくよかな湯気が立ち上る。鍋に直接箸をつける。レンゲの上に小さいうどんを完成させていかにも庶民的な満足感を覚える。はふはふと下唇を突きだして口いっぱいに頬張ると、たまらず鼻が鳴る。舌が火傷しそうだが手は止まらない。必死に食べている自分を、後頭部の辺りからもう一人の私が見ている。その私は、必死に食べている私を、どこか愛おしく眺めている。丸まった背中が父に似ている。つゆが跳ねるのも気にせずあふ、あふと口に運び続ける。嵩が半分くらいになるうちに、うどんに対して奇妙な責任感が芽生えていた。
 幼い日、寝込んでいた布団から見上げた母の後ろ姿と、茶碗が用意されていた具だくさんの煮込みうどんとがよぎる。生え際の辺りに汗をかいているのが分かる。半纏の柄やこたつの熱が一瞬くっきりと蘇る。潰れずほぼ完熟になっていた黄身をひょいと口に入れる。あれだけ急いで飲み込んでいたくせに、最後の一口はやたらもったいぶって味わう。上気した頬が熱い。年尾も近い。お年賀は何にしようか。半ば鼻水を垂らしながら、私はたいらげた。



1月22日(火)20:06 | トラックバック(0) | コメント(0) | 趣味 | 管理

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