ラジ茶、あります
 
ラジ観察日記のパスを忘れた誰かさんのための日記
 



橋(前篇)

 「さあ」
 男は口を開いた。

 朝から山羊がひっきりなしに鳴き、自らの尻を追いかけて延々と回り続ける日だった。楢や欅はいつになくざわめき、空は6年前の災いの日と同じ色をしていた。得体の知れない何かが、その大きな体内に一帯を包んでいるかのようだった。
 しかし行かないわけにはいかなかった。元より体の弱い母の飲み薬は、山一つ向こうの町にしかない。加えて、薬売りが来るのは季節の変わり目の一日のみである。この集落に住む人々は閉鎖的な気風を好み、外へ出ることを良しとしなかったので、代々踏襲される通過儀礼の一つとして、つがとれた子どもが遣い役を与えられる習わしであった。今秋も例外ではなく、おとつい十を数えたばかりのその家の子どもが務めることとなる。
 自らの背丈よりも高い草をかき分けながら、子どもは谷を目指していた。頼りは手にした紙(その界隈の子どもたちを取りまとめている、七つ上の少年が書いた地図)と、今にも茂みに覆われそうな、木暗い獣道のみ。この道を行けば、じきに橋に出るはずである。昼前には家を出たというのに、いまだちらとも見えない目印を求めて、子どもは足を速めた。
 辿り着いた橋を見て、先ほどまで母への愛を胸に、休むことなく交互に運んできた爪先が固まった。老朽化した華奢な吊り橋は、秋風に酔わされ、牛の尾のように揺れていた。里と町とを結ぶ唯一の橋、蔓を縒って作られた細い手すりは、遠目にもほつれかかっており、雨風に何十年とさらされ続けてきたであろう、板を繋いだだけのひ弱な桁は、小鳩が止まり木に使っただけでもひび割れそうで、荒々しい濁流の上に立つにはあまりにも心許ない。波が再び岩肌で爆ぜるまでの数秒、子どもは立ち止まり、そしてすうと息を吐いた。
 幾たびもの狩りでも怯まなかった勇敢な祖父の血を、子どもは受け継いでいた。(ある日森の奥で彼の靴や引きちぎれた衣服が見つかった。)紙を背の革袋にしまい、人一人分ほどしかない橋を、両手でしがみつきながら渡っていく。力を入れるほどに棘が柔らかい腹の指を刺したが、後悔しそうになる気持ちを紛らわせるためにその痛みは必要だった。まばらな足場から伺える、眼下の暴れる川をできるだけ見ないよう、向こう岸ただ一点を睨み、一歩、また一歩と進んでいく。膝のきしみは、立ち止まったならば今にも笑いだしそうな兆しを孕んでいる。
 影さえも飲み込むような曇天の下、俯きそうになる顔を、母を思い浮かべることでこらえた。まるで悍馬のような橋の手綱を取り、途方もない時間をかけ、ようやく央ばまで差し掛かった。ほんの少し安堵して、無数の空を切る落葉に目を奪われ、前を見据えなおすと、男が立っていた。



10月30日(日)22:25 | トラックバック(0) | コメント(0) | 趣味 | 管理

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